分断
夏ってこんなに短かったっけ。
始まったと思ったら終わりかけている。なんもしてないから余計にそう思う。
なんかしてることといえば、iPhoneにデフォルトで入ってる「ブック」アプリで名作文学を読むこと。
昨年から文豪の名作をきちんと読む努力をしているので、ありがたい。
iPadを買ってから電子書籍を読むようになったけど、私はかつてブックオフが死ぬほど好きだった。週1で行ってた気がする。
今も近所の古本屋に行くが、このコロナ禍で以前より潔癖になってしまったと思う。悲しいことに。
キタナシュランみたいな飲食店も大好きだったけど、もう行けなくなってしまった…。
堀辰雄の菜穂子も、中古で買ってから汚さが気になって読めなかったし。
でもそれを助けてくれたのがAppleのブックアプリ。
名作文学は絶対古本屋に100円で置いているので、それを知って新品で買うのもなんだかなあと思い、最近読書サイクルが止まったのを、このアプリが加速的に上げてくれた。
なんせ、無料だし。
今や電子書籍のメリットは、場所を取らないだけでなく、汚れがつかないことにもあるのかもしれない。
近頃はドグラ・マグラを読んでる。
「こんな読者も中身もヤヤコシソーな小説絶対読まないだろう」と昔から思っていたけれど、電子書籍だと旧字がないので、割とスルスル読める。
「それじゃ味がない」と言う人もいるだろうが、本だと及び腰になるものが電子書籍で読めるのは超いいなーと思う。
そもそも私が現代文学ではなく、誰もが知る名作ばかり読んでるのも、面倒くさいことの外にいたかったからなんだなと、ふと思う。
最近のSNSはどう考えても地獄だ。
フジロックの開催是非が問われていた時に、やっとこの不快感を言語化できた。
コロナ禍以降、何を言ってもブーメランになって返ってくる。
アジカンのゴッチが、オリンピックを批判しながらも、フジロックに出演したことを批判されていたのがその例だ。
事実を並べれば不誠実に聞こえるが、自身の生活や音楽業界の今後、いろんな葛藤があって参加を決めたのだろうと思う。
思想は地続きであるべきだとは思うけれど、だからって白か黒かを求められすぎないか。
私だってノンポリではないし、夫とは毎日政治の話をする。
けれど、オリンピックに反対しながらも、懸命に戦いキラキラした選手たちを目の前にすれば「選手に罪はない」と思うし、競技を見て体が熱くなるほど感動した。
この自分の、どちらにも足をつけているようなグレーさが、twitterなんかを見ていると、とてつもない悪者に見える。でも多分、オリンピックに関しては、私みたいな人がかなりを占めるんじゃないだろうか。
グレーな自分を省みたときに、見張っている不謹慎ポリスの影を常に感じてしまう。もはや捨て垢ではなく、友人に対しても。
ああ、これが「分断」なんだな。やっと気づいた。
だからこそ、今はコロナ禍の問題をあらゆる面で考え、言語化できる人が圧倒的に強者に見える。それが得意な人は今SNSがとても楽しいだろうと思う。
何も考えてないから、何も言わないんじゃない。でも何か言うと、それが足跡のように残って、思想に一貫性がないとされたとき、指をさされてしまう気がする。そうなったとき、果たして自分はうまく反論できるんだろうか。
ずっと、「正しいか・正しくないか」誰かに試されている気がする。だからひろゆきみたいな人が持ち上げられるのもわかる。こんなのは異常だ。SNSがどんどん地獄になっていく。
ちょっと話せば友人とも「なんか気持ち悪いよね、この感じ」と共感できるのに、あまりに友人に会っていなさすぎて、ちょっとした心のささくれみたいなものが、違和感として残り続けるのも嫌だな。
昼休みも感染が怖くて1人で食べるようになったし、同僚とも出勤日が合わず、ほんっとうに他愛のない話をする機会がなくなってしまったのを感じて、とても寂しいよ。
もはやあらゆる言論の中に巻き込まれるのが嫌で、すでに批評され尽くした本を読むのは気楽だ。