さくら/西加奈子

半分くらい読んでいたけど、それから半年間放置。最近になって続きを一気に読んだ。いろんな作家がいるのに、本って何を読めばいいのかよくわからない。いいなと思った作家の本を遡ってずーっと読み続けていて、西加奈子がその代表的な一人だ。自分の性格が出ているなと思う。
できるだけ重くなくて、最後に救いがある本じゃないと嫌だと思うようになってから、簡単にいろんな本に手が出せない。

 

さくら (小学館文庫)

さくら (小学館文庫)

 

一匹の犬と、家族の話だ。
雑種の愛犬サクラを全身でかわいがるように、長谷川家の人々は全身で人を愛する。それが「長谷川家のやり方だ」という言い方が、私はとても好きだった。あとは、「うちの家らしい」だとか。「〇〇家のやり方」って言葉は粋だなあ、これほど世の中に家族のコミュニティが存在していながら、家族の一人がそんな風に言える家はどれくらいあるだろう。カップルならまだあると思う、2人だから。けど、この漫画のような5人家族の中の3人の子どもが、両親の価値観の一部をとても心地の良いものとして受け入れ、毎回が最短距離ではない、くねくねと曲がった曲線のコミュニケーションの先に、気持ちの良い落としどころに持っていく安心感は、雲の晴れ間みたいに柔らかくてとてもまぶしい。

改めて、夫婦は奇跡だ。たった2人から、それを超える3人をつくることができるなんて。
そんな風に思うほど、長谷川家の子ども3人は、血の繋がりだけではなく、両親のやり方を引き継いで、好んで5人家族の当たり前にしていった。なんとなく、夫婦の下に三つ線が引かれた家系図が、とても意味ありげに頭に浮かんだ。こんなの、ただの記号だと思っていたのに。

我が家には「やり方」があるのだろうか。両親の夫婦仲は冷めきっているので、正直長谷川家のようなやり方はない。けれど、同じ芸人のコントみたいに、家族のパターンはある。

例えば、うちの父はとても優しい。それだけが取り柄とも言えるほどに。私は嫌な顔をされたことは何度もあっても、父に怒られたことは人生で一度もないかもしれない。弟はそんな父を見ているので、人気のない飲食店に対して「かわいそうだから」という理由で入ることができるような、不憫なものに弱い優しい心の持ち主だ。私は文句も悪口も言うが、情に訴えかけられると折れやすいという意味では完全にこちら側の人間である。

けれど、母は違う。
昔、家族旅行で大王岬に行った時、ヨボヨボのおばあさんがボロボロの露店で海苔や昆布を売っていた。「ヨボヨボのおばあさん+ボロボロの露店=めっちゃかわいそう」の図式が完全に出来上がっていたので、弟は「なんか買ってあげたい…」という表情をしていたが、それに目もくれず、母は「この昆布どこ産ですか?ここじゃないですよね?」というダイナマイトを投げていた。

おばあさんに「…韓国産やけど…。」と言わしめた姿は忘れない。結果的に母は老婆の見た目に騙されず昆布の産地を爆くことに成功したが、老婆の生活を想っていた私たちにとってその昆布はどこ産であろうが関係なかったので、血も涙もない女だなと思った。

つまり、うちの家族は母によってかなりバランスが保たれている。たまに、平和ボケした温厚なハブだらけの一家マングースがぶち込まれたような存在感を放つ時がある。一度、父が怪しい壺を売りつけられそうになっていた時に、母が家から商人を追い返したのを見て、母こそうちの大黒柱なのだと思った。たぶん母がうちで一番、リアリストなんだと思う。そこに情は不必要だ。こういう人間が、家族に一人はいないといけないのかもしれない。
これがうちの「いつものパターン」で、情に弱いという欠点を母以外が理解しているからこそ、母の信頼は家族の中でぶっちぎりである。「長谷川家のやり方」というほどではないけれど、「うちの家族らしいな」と思うのは、いつもこのパターンが見えた時だ。

なんとなく、そうやって家族のあたたかい部分を因数分解したくなるような気持ちにさせられる話だった。それぞれの家族の「やり方」が一つではないし、誰か欠けてしまったときに同じやり方を求め続けると歯車が狂ってしまうこともある。そういうときは別のやり方を探したらいいというというメッセージがきっと、長谷川家の父が病院を探すシーンに込められている。

サクラ、かわいかったなー。私はいつか、死ぬまでに絶対猫飼いたいけど、犬でもいいなあ。サクラの質感も毛の感じも、リアルに感じられるほど、サクラがでてくるとき、私はサクラを抱いているミキになった。