エスパー/ミツメ

なんだか変なお菓子のパッケージや、不思議な曲のタイトルを見かけると、「たぶんあの人はきっとこんな風に例えるだろうなあ」と想像がつく。そしてその予想はだいたい当たる。そのたびに「やっぱり」と、相手を知っている優越感に心が満たされる。今思えば、それをエスパーやテレパシーだと例えることもできただろうか。

吉本新喜劇みたいに、毎話全く同じ掛け合いがいつまでもマンネリ化せず楽しいのは、なぜだろう。噛みすぎたガムみたいに、味がしなくなるなんてことがなくて、いつまでも甘美なのは、なぜだろう。恋人でも友人でも、関係が深ければ深いほど、こんな風に思うことがある。「お互いのことを知っている楽しさ」がいつの間にか共通言語を生み、二人の世界を作っていくのだろうと思う。出会った頃や、何年も前の旅先での話を、何度でも掘り起こしながら。

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 昨年末、ミツメのエスパーがいいねという話になったとき、友人から「恋人と長く一緒にいて、だいたいのことわかっちゃって、つまんないなって曲だと思う」というようなことを言われた。すぐさま「えっ、それってつまんないですか?」と思わず返事をしてしまったのは、私は前述のように通じ合う楽しさを、恋人同士の付き合いの中で、何よりも幸せに感じてきたからだ。でも、この曲をじっくり何度も聴きながら、そういえばお互いを深く知ることで齎されるのは、どんな関係であろうと、幸せだけじゃないなと、久々に考えたのだった。

エスパー」は、長い間付き合っている恋人同士の曲であり、この曲には二本の時間軸がある。「名前を書いて消していた頃みたいに」と例えられる付き合いはじめの頃と、もう一つは、それから何年も経ち、関係が落ち着いた今だ。

最初は、好きな食べ物とか、なんでもいいから知っていくことにワクワクするだろう。次第に軽口が叩けるようになり始めた頃、相手がどんなことで怒るのかを知らなくて、ふとした言葉で傷つけたり、逆に傷つけられることもある。そんなとき、テレパシーでもあればと、きっと思ったことだろう。

だが、この曲には、一つ矛盾がある。1番のサビ前では、「テレパシー目と目で通じ合えたなら 思うだけのただの二人」と、互いに理解しきれていない前述のような状況を嘆いているにも関わらず、2番では、昔と比較して「変わらずそのまま通じ合えたなら」と歌っている点だ。つまり、付き合った当初に通じ合えていなかったことを嘆いていたはずなのに、「変わらずそのまま」では、当初こそ通じ合えていたことになってしまう。

この歌詞の矛盾の理由は、時が経ち、互いを知りすぎたことで抱える問題の大きさを想うと、テレパシーが欲しいと思っていた手探りのあの頃すら分かり合えていたように思えている、ということなのだろう。

互いを知りすぎることによって、二人の問題が複雑になってしまうことは往々にしてある。知りすぎると、同じ行き止まりに何度も出会うことにもなるから。知っていることが諦めに繋がるときの、良からぬ空気をこの曲の中で感じる。

そんな風に、時間が経って、二人の間のエスパーの在り方が変わっていく経験が、たくさんの人にあるのではないだろうか。じゃあ、なんで一緒にいるのか?エスパーが齎す安心感も、もちろんあるからだ。知っていることが、一緒にいる理由でもある。知りすぎているからこそ叩ききれない扉もあれば、知られているからこそとびきり楽しいこともたくさんある。まさに、文頭で述べた例えのように。

二人の毎日は、これからも続いていく。サイケな音の響きが二人の末路をうやむやにしながら、不安を抱えつつも楽しい日々がなんとなく続いてく。曲が醸し出す結論を求めない浮遊感が、リアリティに追い打ちをかけるようで、切ない。でも、こんなものなのかな、とも思う。誰かと深く、深く、一緒にいることなんて。

 

エスパー

エスパー