さくら/西加奈子

半分くらい読んでいたけど、それから半年間放置。最近になって続きを一気に読んだ。いろんな作家がいるのに、本って何を読めばいいのかよくわからない。いいなと思った作家の本を遡ってずーっと読み続けていて、西加奈子がその代表的な一人だ。自分の性格が出ているなと思う。
できるだけ重くなくて、最後に救いがある本じゃないと嫌だと思うようになってから、簡単にいろんな本に手が出せない。

 

さくら (小学館文庫)

さくら (小学館文庫)

 

一匹の犬と、家族の話だ。
雑種の愛犬サクラを全身でかわいがるように、長谷川家の人々は全身で人を愛する。それが「長谷川家のやり方だ」という言い方が、私はとても好きだった。あとは、「うちの家らしい」だとか。「〇〇家のやり方」って言葉は粋だなあ、これほど世の中に家族のコミュニティが存在していながら、家族の一人がそんな風に言える家はどれくらいあるだろう。カップルならまだあると思う、2人だから。けど、この漫画のような5人家族の中の3人の子どもが、両親の価値観の一部をとても心地の良いものとして受け入れ、毎回が最短距離ではない、くねくねと曲がった曲線のコミュニケーションの先に、気持ちの良い落としどころに持っていく安心感は、雲の晴れ間みたいに柔らかくてとてもまぶしい。

改めて、夫婦は奇跡だ。たった2人から、それを超える3人をつくることができるなんて。
そんな風に思うほど、長谷川家の子ども3人は、血の繋がりだけではなく、両親のやり方を引き継いで、好んで5人家族の当たり前にしていった。なんとなく、夫婦の下に三つ線が引かれた家系図が、とても意味ありげに頭に浮かんだ。こんなの、ただの記号だと思っていたのに。

我が家には「やり方」があるのだろうか。両親の夫婦仲は冷めきっているので、正直長谷川家のようなやり方はない。けれど、同じ芸人のコントみたいに、家族のパターンはある。

例えば、うちの父はとても優しい。それだけが取り柄とも言えるほどに。私は嫌な顔をされたことは何度もあっても、父に怒られたことは人生で一度もないかもしれない。弟はそんな父を見ているので、人気のない飲食店に対して「かわいそうだから」という理由で入ることができるような、不憫なものに弱い優しい心の持ち主だ。私は文句も悪口も言うが、情に訴えかけられると折れやすいという意味では完全にこちら側の人間である。

けれど、母は違う。
昔、家族旅行で大王岬に行った時、ヨボヨボのおばあさんがボロボロの露店で海苔や昆布を売っていた。「ヨボヨボのおばあさん+ボロボロの露店=めっちゃかわいそう」の図式が完全に出来上がっていたので、弟は「なんか買ってあげたい…」という表情をしていたが、それに目もくれず、母は「この昆布どこ産ですか?ここじゃないですよね?」というダイナマイトを投げていた。

おばあさんに「…韓国産やけど…。」と言わしめた姿は忘れない。結果的に母は老婆の見た目に騙されず昆布の産地を爆くことに成功したが、老婆の生活を想っていた私たちにとってその昆布はどこ産であろうが関係なかったので、血も涙もない女だなと思った。

つまり、うちの家族は母によってかなりバランスが保たれている。たまに、平和ボケした温厚なハブだらけの一家マングースがぶち込まれたような存在感を放つ時がある。一度、父が怪しい壺を売りつけられそうになっていた時に、母が家から商人を追い返したのを見て、母こそうちの大黒柱なのだと思った。たぶん母がうちで一番、リアリストなんだと思う。そこに情は不必要だ。こういう人間が、家族に一人はいないといけないのかもしれない。
これがうちの「いつものパターン」で、情に弱いという欠点を母以外が理解しているからこそ、母の信頼は家族の中でぶっちぎりである。「長谷川家のやり方」というほどではないけれど、「うちの家族らしいな」と思うのは、いつもこのパターンが見えた時だ。

なんとなく、そうやって家族のあたたかい部分を因数分解したくなるような気持ちにさせられる話だった。それぞれの家族の「やり方」が一つではないし、誰か欠けてしまったときに同じやり方を求め続けると歯車が狂ってしまうこともある。そういうときは別のやり方を探したらいいというというメッセージがきっと、長谷川家の父が病院を探すシーンに込められている。

サクラ、かわいかったなー。私はいつか、死ぬまでに絶対猫飼いたいけど、犬でもいいなあ。サクラの質感も毛の感じも、リアルに感じられるほど、サクラがでてくるとき、私はサクラを抱いているミキになった。

あなたはあなた/柴田聡子

「愛の休日」は、私的2017年アルバムベストオブザイヤーになること間違いなし。前のレビュー記事をあげたときの100倍ハマっている。そのときは、柴田聡子の人間たる魅力に迫っていたけれど、今は曲の魅力にどっぷり浸かっている感じ。「まさか、自分が、柴田聡子に、ここまでハマるなんて!!」と、言葉の間に一呼吸置きながら大きな大きな声で言いたいくらい!

愛の休日

愛の休日

 

 以前、柴田聡子の前のアルバムがでたときに、友人が「れんこんの穴にお箸を 詰めて 冷蔵庫にそっと置いておいて 見つけたきみは何も言わず お箸を抜いて支度を始める」って歌詞に対して、「やっぱりなんか怖いよ」と言っていたことを思い出して、そりゃそうだよなと笑ったことがあったけど、そんな遠巻きに見ていた人達も巻き込んで彼女のファンにさせてしまうのが、「愛の休日」なんだろうなと思う。だってこのアルバム、なんだか楽しい予定の当日に、静かに朝が始まっていくようなウキウキとワクワクがありませんか。淡々と始まるスプライト・フォー・ユーのイントロから心地よくて、通勤時に電車に揺られながら聴くと、眠たい体がゆっくりと車窓越しの朝の光に順応していくようだ。

 

そしてこのアルバムの中でも、特に名曲指数が抜群に高いのが「あなたはあなた」という曲ではないだろうか。柴田聡子にしか歌えない微妙なニュアンスがこの世には確実に存在していることを確信する一曲。

歌詞を人物像から紐解くと、こういう感じだと思う。

うわさに聞いたけど 銀行に勤めてるって 嫁さんもらわずに毎週出かけて行くって

あなたの休日はたまに贅沢をして 遠い外国にもひとりで行くって

おみやげなんにも買ってこないで いい匂いだけで帰ってくる

 いくつか「あなた」を描写している部分を抜粋したけれど、よっぽど一人が好きな男のようだ。恋人がいなくても、何でも一人で楽しめるタイプの、その中でも相当変わっている男性なのが見て取れる。なぜなら、「なにかが欠けている なにかがありすぎる 人のきもちとして間違っている」という部分は、私はお互いのことを指していると解釈しているので。

そんな彼を「わたし」は具体的にどう好きかと思っているかというと、異国の香りを引き連れて帰ってきた彼に対するこのキラーフレーズ。

お母さんも知らないような香り

一人で外国へも行っちゃうような自由人としての「彼への憧れ」を、「おかあさんも知らないような香り」というたった一言で表現しちゃうんだから、柴田聡子ワールドの恐ろしさたるや。みんな幼い頃、母親が知らないことなんてこの世にないと思ってたもんな。しかもこの「おかあさん」というワードが、二人が幼馴染であった関係や「わたし」の子供っぽさをなんとなく彷彿させている気にもなる。もう、柴田聡子は短歌でも書いた方がいいんじゃないか…。第二の俵万智になれるよ、きっと。

そんでもって、この部分の葛藤がかわいくて。

放っておいてとも思わないの わかってくれとも思わないよ

つまり、自由で一人でどこへにも行ける彼に憧れているけれど、彼は一人が好きなので他人といることに興味を持ってもらえない、でも好き、そういう風に聞こえてならない。
「あなたの生き方に水を差したりしませんよ、でも少しはかまってほしいな」という本音が見える気がする。

というわけで、結論が遅くなったが、「あなたはあなた」の切なさの真髄は、自分が彼を好きな理由が、自分に興味を持ってもらえない理由でもあることだ。
と、私には思えて、この曲を聴くとマンガ一冊読んだ後のような充実感を得られる。1曲4分前後の少ない情報で想像力が掻き立てられる曲を私はよく「マンガみたいな曲だ!!」と喜んで言うけれど、まさにそんな一曲だと思う。

そして、この曲において大事すぎる、最後のサビに向かうこの部分。

好かれても嫌われても人と人とのことだもの
いつか赤い屋根の温泉行きたいの

これは省略された部分を正しく書くと、こうだろうか。

好かれても嫌われても人と人とのことだから仕方ないわ
でも本当は、いつか一緒に赤い屋根の温泉行きたいの

「いつか赤い屋根の温泉行きたいの」でパーッと前が開けていく明るい景色が見えて、胸がキューーッとなる。もし彼女がアイドルだったとして、私が「聡子ーーー!!!!」と叫ぶならここ。聡子ーーーーーーーーーーーーーー!!!!

だってここで初めて、相手を大事に思うあまり、ずっと遠慮がちだったわたしから、初めて「~したい」なんていう、本音がでてきたのだから。
ここからの繰り返しのサビは、スプライトのしゅわしゅわの泡のようにはじけて、きらきら明るい幸せな気持ちでいっぱいになる。キーが上がる訳でもないのに、このクライマックス感、一体どうしたものか。

ちょっと変わった人だけど「あなたはあなた」。そんな変な人が好きな変わった私も「わたしはわたし」。この言葉は片方だけではきっと成り立たなくて、この相互作用の奥にはきっと彼女の恋心への誇らしい肯定がある。
ああ、恋だなあ。
柴田聡子の純粋な声でこんな歌を歌うのはずるすぎる!応援せずにはいられない。
好きな人の大切な趣味や価値観を、何も口出ししないという姿勢で黙って大切にするところも、私はすごくかわいいと思う。普通は西野カナのトリセツみたいに、あーやこーや言っちゃうけど、水を差さない愛ってそりゃもう、忍耐力がいるはずだから。だって、相手には伝わらないもん。でも、見守る愛だってあるのだ、何も与えるだけが愛ではない。

「高いレールの上を走る 黄色い二人乗り自転車」なんていうのは、こういうやつかな。

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既にあった出来事なのかは定かではないけれど、
きっと行けたらいいね、遊園地。赤い屋根の温泉じゃなくても。

永遠に銀河の風に吹かれて

遂に2017年も半分が終わってしまった。「また歳をとるなあ」と、いつものような悲しい気持ちにはならない。「ちょうど半分くらいかな」と思えるペースとボリュームで日々自分が柔らかく変わっていくのを実感しているからだと思う。速すぎず遅すぎず、どちらかというと遅い方が安心する。速いと、また急かしているのかなと思ってしまうから。私は上半期、本当にゆっくり生きた。少し急いだ時もあったけど、そういうときはその分ゆっくり歩いた。

 

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昨年初めて出会って、何度聴いたかわからないこの曲は、いくら立ち止まっても次の日には必ず歩を進めさせてくれた。

 

泣くことを諦めて 前も見えなくなって

電話も出ないで 風の音だけ聞いてたこともあったわ

 

この部分は、今聴いても自然と涙が出てくる。昨年の冬、身体を壊すまで自分を追い詰めた末、友達にも会えなくなって、SNSからも距離を置いて、家族もなんか億劫で、けど誰かと話したくて、母方のおばあちゃんといるのが心地よくて、毎日のようにコーヒーを飲みに祖母の家に通っていた。そして、その度に「はやく元気になりたいんだけどさ〜、おじいちゃん、どうにかならないかな〜?」と泣きながら祖父の遺影に手を合わせ続けた。そのときのことを、どうしても思い出してしまうからだ。

サビの「もし生まれ変わって 違う私でも 永遠に銀河の風に吹かれて」という言葉は、どれだけ私に勇気と希望と元気を与えてくれただろう。YUKIに夢中になる人の気持ちが初めてわかった。この時期にJUDY AND MARYを好きになれたことは一生の宝物だ。本当に大好き!だから、今年はこのタイミングでどうしてもYUKIが見たくて、久々にフジロックに行くことに決めた。

今はやっと、素直にいろんなことにワクワクし始めている。
春はいろんな人に「もう大丈夫!」だなんて言っておきながら内心はまだかなり無理していたけれど、やっと6月の暮れになって、再構築メーターは90%くらいにきたかなという感じ。荷物の背負い方が全然違う。生きるのがどんどん楽になっていて、少しずつでいいから、もっと歩を進めてみたい。

そんな風になれたのは、今までの私と、2017年になりたい私というのが、しいたけ占いの上半期の助言のまんまだったのがすごく大きい。いやあ、世相だなあと思うほどに、しいたけ占いが元来の占いの概念を覆しながら支持されているのは、自分らしく生きるヒントをくれるからだ。世の中の女の子たちはみんな疲れているんだね~。

 

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 何度もこれを指針にして、占いが更新される毎週月曜日には「もっと頑張らなければならないのでは…」という強迫観念から「今週も楽しいことしまくってサボりま~くろ」という視点に戻せたのですごくよかった。基本、しいたけは毎週「今週もバカンスしまくろうぜ!お前今まで頑張りすぎてたからさ!」的なことしか言わなかったから。笑

おかげで上半期、おいしいものを食べて、飲んで、寝て、ゆっくりできた。おかげで3キロ太ったけど、びっくりするくらい後悔してない。今はその分ダイエット中。

 

 私が疲れてしまったたくさんの原因の中の一つに「人それぞれの考え方があるから、それは尊重されるべき」という、自分の他人に対する信条を大切にしすぎたことがある。しいたけの言う水瓶座の「人に対して徹底的に貢献しようとするあなた」というのも、こういうところが一つあるのだろうなー。

その結果、いろんな人との関わり合いの中で「この人のこういうところ、ちょっといやかも」と思ったときに「それを許してあげられない自分がダメ、そう思わせてる自分もダメ」という風にどうしても考えてしまって、そしてそれをため込むことは、つまり自分を責め続けることで…小さい頃から今までそれを続けて、遂にへなへなになってしまったのだった。それを「君は優しすぎる」と言ってくれる人もたくさんいたけれど、こんなに苦しいものが優しさなのかも、わからなくなった。

 でも、わたしはわたし。大切な人たちのすべてを受け入れなくていいのだ。
今も前述の信条は変わらないけど、「自分が今やりたくないことはやらない」「やりたいことだけをやる」をゆっくりやり続けた結果、やっと他人や自分のことを「受け止め、受け流す」ができるようになった。今は「自分だけが悪いことなんて絶対にこの世にない!」と思っているので、簡単に人のせいにもできる。それだけでこんなに楽になるなんて、嘘のようだ。みんなが当たり前にできることだけど、私は本当にできなかったんだから。でも、やっとスタートライン…なんてことはない。私はそれすら追い越して、進み続けていた。同じことでも、景色が全く違って見える。

 そして、客観的に自分を見れるようになって、何が原因でいろんなことを踏み切れないのかを見極められるようになったこともすごく大きい。というか、言葉にできない・したくないモヤモヤに対して、ガッツリ直視する勇気を持てるようになった。例えば、頼まれごとに対してウンと言えないときに、なんでなんだろうと考えるようになった。それはプライドだったり、見栄だったりするけれど、素直に向き合いたくないそれは、一番の私の心の声のはず。だから、一瞬冷静になることによって、「よしよし、じゃあプライドひっこめようか~」と素直に自分の中で駆け引きができることが多くなった。もし笑顔が引きつってたって、それができたら合格ラインだと思ってやっている。完璧にできない自分のことを、もう責めたりしない。次、うまくやればいい。みんなそんなに最初から期待してないから。

こういう冷静に客観視して足し算・引き算をする力は仕事をする上で一番活きた。急な変更に、慌てたりパニックになることが減り、「じゃあ現状に何が足されればこの場が落ち着くのか」を真っ先に考えられるようになり、かなりプラスになった。

 あとは、絶対に自分の価値を見誤らないこと。
今年の冬から3月頃にかけて、転職しようとして受けた面接に関して、全部最終面接まで進めたのも大きかった。体調面の不安がまだまだある頃で、結局すべて最終面接に行かず断ったが、すべて行きたかった会社だったので、かなり自信がついた。なにより、プライベートでいろんな人たちが、穴のあいたれんこんのような状態の私のことも、「頼ってくれて嬉しい」と言って、愛してくれたから。

私は人よりきっとバイタリティはある。元気になる過程を見続けてくれた人に「君の数ヶ月は人の4年分のスピード感に相当するね」と言われたことが、本当に嬉しかった。時間が進まなくて、苦しくて、毎日ギリギリで、できない自分を責めては泣き続けたけど、気がついたらここまできていた。1リットルはゆうに超えるくらい泣いた。

一生懸命頑張れるけど、頑張ってない自分にもちゃんと魅力があること、できないことはできないでいいこと、失敗は糧になること、だから次ちゃんとできればいいこと、毎日お弁当を作っている私は自分が思っている以上に偉いこと、すべてを正しく受け止めて、新しい環境を自分で作り出してみたい。ゆっくり、ゆっくり。私のペースで。

 

…なんて、なんだか強気な文章を書いてしまったけれど、全然毎日弱気で、悔しくて一人で泣いてばっかりだ!笑

でも、私が自分に対して一番誇れること、それは、どんなに辛いことがあっても時間がかかっても、必ず自分の言葉で自分が納得できる結論がみつけられること。どんなに苦しいときも、どうしても私はそれを覚えておきたかったから、2017年の一区切りとして言葉を残しておきたかった。だから、これを書いている今だけは、少しだけ強気でいさせて。

今までの人生で一番苦しいと言っていた昨年末、友達に「君の2016年は捨てちゃダメだよ」と言われた。捨てなくてよかった。ちゃんと2017年に繋がっていた。

タイコクラブに行ってきた

人生初、タイコクラブに行ってきた。

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キャンプを必要とするフェスに関しては、フジロックで経験済みだけど、こんなに快適なものかと驚いた。フジロック3日間は、物理的な部分でかなりしんどかったのは事実。タイコは以下の3点がかなりクリアだったのが良かった。

・ステージ間の距離がたいして苦痛じゃない。5分~10分以内。
・テントサイトからステージが近いので疲れたらすぐ帰れる
・テントサイトが芝生で平面。(フジはすごい傾斜)


フジロックの隣同士のステージ、グリーンからホワイトの地獄のような距離と天気、人の多さ、テントサイトまでの距離、もう憎さしかないので…。
でも今年helinoxのパチモンのチェアを買ったので、持ち運びしたら5年前のフジよりかはよっぽど楽しめるかも!

アウトドア偏差値70くらいのお友達と行ったので、食事がとても楽しかったです。友達が仕込んできたこの鳥さんの中にはピラフまで入っており、料理が信じられないレベルで美味しすぎてなかなかライブを見に行けなかった。

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しかし、寒い寒いとは聞いていたけど、夜は尋常じゃないほどの寒さに驚いた。
まーさすがに使わないっしょと思いながら多めに持って行った防寒具ですべて武装、なおクソ寒い!!という状況。あったかく快適に眠るにはいくらかければいいんでしょうか…。横綱にくっついて寝るくらいしか対応策が思いつかない。

ちなみに防寒具ラインナップはこれ。手持ちのユニクロ

ヒートテック
ヒートテック極暖(普通のと二枚重ねした)
ヒートテックタートルネックフリース
・ウルトラライトダウン長袖
・150デニールタイツ
・貼るカイロ

5月だけど、これでも余裕で寒かった。芝生には霜が降ってた。昼間は夏服なのに!!
夜中に作って食べたカップラーメンがおいしかったなあ。寝袋は封筒型だったので、寒さ対策にいつかマミー型がほしい。焚き火が暖かかった。

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しかし、これを機会にひも付きの帽子も、サコッシュも、速乾性の高いスカートも、パチモンヘリノも揃えたので、あとはゴアテックスがあれば完璧。カープファンだから野球観戦にも使えるように、赤のゴア買いたいんだー。
トレッキングシューズもあるし、軽い登山やハイキングならできるくらいには揃えられたので、夏フェスどんとこい!って感じ。
いつもフジとかタイコを遠巻きに見てたのは、物を持っていなかったからなので、今後とても気楽。

しかしモノ揃えるのって、たのしーねーーー。
かわいくないとバカにしては遠ざけていたモンベルがいかに安くて良いものかも、貧乏人故、気付いてしまった。速乾性のあるスカートを買った。(本当はむちゃくちゃノースフェイスで買いたいし次は買うもん)

ライブはみんなで見たlittle simzが良かった。友達二人が私の分のビール買って待っててくれて嬉しかった。

あとは真夜中のcero
ceroのライブはワンマンも含め何度も行っている。最近もういいか、とライブに飽き始めて足が遠ざかっていたけれど、目の覚めるような演奏に驚いた。ロケーションがいいだけじゃない、そう確信できるほど今までのライブとは少しずつアレンジも違うように思えたし、夜中の1時に体力の限界を感じていたとはいえ、ほとんど最後まで見た。

ロープウェーという新曲がある。

Everything's Gone To The Foggy Outside
やがて人生は次のコーナーに
人生が次のコーナーに差し掛かって

今日のceroは、この曲を聴きに来たんだった。

「人生が次のコーナーに差し掛かって」このフレーズを聴くたびに、心がすり減ってどうしようもない気持ちになる。他人の歩く速さなんてどうでもいいからゆっくり歩くと決めたはずなのに、私の人生の次のコーナーは一体どこにあるのだろうか、と。

だけど、今日この日に聴いたライブでは、「今こそ私の人生は次のコーナーに差し掛かってる」と思えたから不思議だった。ぽろぽろ泣きながらテントに帰った。

…最近は自分の世界が少しずつ広がっていくのがわかる。新しい趣味が増えた。自分から発信することが増えた。アウトプットが惜しみなくできるようになった。
そしてそのすべてに、自分で進んで得た人間関係があった。その中には、少し前の自分では遠慮して構築できなかったであろう人間関係も含まれる。

まっさらから関係を築くとき、自分が前よりもずっと素直だから、なんだか今までとちょっと違う。自分と自分の間で、駆け引きがなくなって、うまくやれるとかやれないとかは関係なくなってしまった。だってダメなときくらいあるっしょ。
何があっても自分だけのせいにしないこと、減点式ではなく加点式であること、それだけでこんなに世界が広がるのかと思う。

失敗とか、成功とか、そういうのが自分からどんどん遠くなっていく。
2017年も半分が終わろうとしている。物事の考え方が180度違って、去年の自分が別人みたいだ。毎日マジでつまんなくて本当に死にそう、でもそれもきっと余裕があるしるしのはず。  

さてさて、次の予定はハイキングだ!!

愛の休日/柴田聡子

初めて初期のライブ映像を見たとき、失礼を承知で言うと、爆弾みたいな人だなと思った。
理由は、歌っている姿が何か訴えようとして怒っているように見えたことと、歌詞に突拍子がなくて、何をしでかすかわからない危なっかしさを感じたからだった。さらに、その時彼女はキノコ頭で少し太っていたので、ころころとした見た目もそう思わせる一助を担っていた。
ももうそんな柴田聡子はどこにもいない。彼女は怒っていない。何より、すっかりあか抜けてしまった彼女は見違えるほどに美しい。

 

愛の休日

愛の休日

 

 

この記事について、本人の意図は知らないので、いつも以上に、あくまでも一ファンの感想として捉えてほしい。

1stアルバムの「しばたさとこ島」を聴いてから、私は話したこともないこの人のことを、きっと同志と受け取っていたのだろう。彼女には、曲とともに人間的な魅力を感じずにはいられなかった。

 

カープファンのあの子は可愛いね
ギター弾けないから ボーカルで相変わらず可愛いね
あの子に子供が産まれる前に わたしに子供が出来る前に
もっともっと酷いことを考えておかなくちゃ


彼女が最初にブレイクしたのはこの「カープファンの子」だが、努力しようが「世の中顔と愛嬌」をまざまざと見せつけられるような歌詞、最後の「もっともっと酷いことを考えておかなくちゃ」のパンチライン…この人、相当卑屈な人生を送ってきたんだろうなと思った。「この気持ちはコンプレックスにまみれた人間にしかわからない」と当時かなり卑屈だった私はモロに共感して、心の「わかる!」ボタンを押し続けていた。

実際この時の柴田聡子は、あんまり可愛いとは言えなかった。
というか、せっかく可愛い顔をしているのに、抜群にあか抜けていなかった。
キノコ頭で、丸眼鏡にシャツのボタンを一番上まで留めて、なんでもないズボンを履いてギターを一生懸命弾いていた。サブカルなイベントにいるリュック姿のちょっと冴えない子、というイメージだった。

カープファンの子」の他にも、「芝の青さ」の「次生まれるときは違う星でお願い」なんて歌詞もあるし、世の中の妬みや嫉みを巧みな言葉選びできる分、もちろんこの人にも何らかのコンプレックスがあるんだろうなと思うに容易い。

なのに、ジャケットには自分の顔をめちゃくちゃアップにして使う。他にもわざと変に写っている写真をアートワークに使っていて、あか抜けない自分が歌っているということを主張するようなパッケージングに思えて仕方なかった。つまり、あんまり可愛くない柴田聡子が歌うことで、曲の説得力が確実に増していた。普通、コンプレックスは隠すものだ。でもこの人は、それをわかって自信満々にやっているようにしか見えなかったから、かなり不思議だった。「柴田聡子は、絶対に柴田聡子でないとならない。」そういう意図ももちろん感じられたが、前述のように不可解に思えてならなかった。

これで、私にとって「何を考えているのかわからない変な人」の烙印が押されることとなった。

そんなイメージが変わり始めたのが、3rdアルバムの「柴田聡子」。
このとき初めてライブに行って思ったことが

「む、むっちゃ可愛いやんけ…」

だった。
痩せて髪も伸びて「ああこの人はもう、カープファンの子がどうこうなんて、言わなくていいな。」と思った。ジャケットと同じワンピース姿が可愛らしい。このアルバムのジャケットは、誰が見たって、とっても可愛い女性だ。とてもキノコ頭でシャツのボタンを一番上まで留めていた野暮ったい女の子と同一人物だと思えない。
ライブを見るのは初めてだったので、「カープファンの子」を聴けるのを楽しみにしていたけれど、別に今の柴田聡子では聴けなくてもいいなと思った。

嫌味のない歌声で淡々と歌い上げるところは変わってない。でも、新しいアルバムには腹の底から出てくるようなねっとりとした怒りは感じないし、圧倒的な清々しさがある。

アルバムの先行MVで「後悔」が公開されたとき、柴田聡子はもうどこにでもいけるんだなと思った。純粋さと素朴さが売りだったはずなのに、斬新なイントロとリズムに合わせて、都会の街中を車に乗って楽しそうに歌う姿はあまりに新鮮だった。そして、とても似合っていた。

 

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初期の彼女は、一人で戦っているような感じがしていたから、なおさら。月刊ウォンブ!のライブ映像なんかまさにそうだと思う。可愛いワンピースを着ているのに、今と全く印象が違うなあ。

 

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でも、彼女はもう一人では作れないような音楽を作っている。「後悔」はそういう象徴的な曲に思える。

新しいアルバムのジャケットの彼女は、びっくりするくらい綺麗だった。腹の底から出していた、「カープファンのあの子はかわいいね」という言葉は、どこへ行ったんだろう。柴田聡子を見ていると、純粋だけど鬱屈した人間が、自分のやりたいようにおもいきって舵を切ることで、いきいきと美しい女性になっていく過程を見ているような気持ちになる。

今や彼女は、純朴な田舎も都会も似合う貴重な女性だ。軽やかなステップで、いろんな人を巻き込んで、自由に楽しく羽ばたいてる彼女の姿は最高に清々しい。純粋な芯を持ちながら、彼女はもっともっと魅力的な女性になるだろう、これからも、きっと、ずっと!
その確信があるからずっと見ていたい。「大嫌い」が「大好き」に聞こえてくるような巧みな言葉の変化球も、もっともっと投げてほしい。

最初、あか抜けないだなんて言ってごめんね。
「卑屈でいたって何も始まらないよなあ」、最近の可能性いっぱいの嬉しい私の口癖が、今の彼女を見ているとうんと近くに感じる。
美しい女性って、こういうことだなと、「愛の休日」を聴きながら、めざましい彼女の活躍を見て思う。

 私は久しぶりに、ライブに行くことを決めたのであった。

スピッツのアナログ盤再発に寄せて


スピッツのアナログが再発する。夢みたいな話だ。スーベニアのアナログ盤が手に入るなんて。他のアナログは最悪手に入らなくてもいいけれど、これだけは…そういう特別な想いがある。アナログ盤は、発売当時CDでスーベニアを買った店で予約した。どうしてもこの店で買いたかったから、予約しただけで嬉しくてちょっと涙が出そうになった。

 

スーベニア

スーベニア

 

 スーベニアの思い入れは、買った場所と、青春時代の片想いにある。

 今から13年くらい前。
中学生の私は音楽に夢中で、お年玉を少しずつ切り崩しては行きつけの家族経営のレコード店でCDを買っていた。例えば「愛内里菜の大ファン」とか、どう見ても濃い常連客達がコーヒーを飲みに来るような、やたらと「玄人向け」っぽい雰囲気に惹かれてその店でCDを買うことが多かった。要は、当時の厨二っぷりが発揮されていた訳だった。ビビりの私は当然ながら店員と仲が良い訳でもない。でも、この店には、「ここで買うことに意義がある」と思っているお客さんがたくさんいることが、店に通うごとにわかるようになった。 

店で夫婦が飼っている猫二匹の名前は、ルー・リードにちなんでいる。
柱には、洋楽イベントのヘッドライナー級のアーティストと、若かりし頃の女将さんが写っている40年くらい前の写真が何枚か飾ってある。

そしてそのレコード店には、明るくて長い髪をオールバックのポニーテールにした、小林麻央似の綺麗なお姉さんがいた。店主の娘さんで、当時23歳くらいだったと思う。颯爽としていて、八重歯がかわいくて、愛嬌があって、だからと言って飾ってなくて。柔らかい雰囲気なのに、いかにも「自分を持っている」という感じがした。私の住む田舎には、こんな人はいなかったから、お姉さんからCDを買うときはいつもドキドキした。話したことはなかったけど、すごく憧れていたんだと思う。

その頃の私はというと、スピッツのフェイクファーを熱心に聴いていた。当時不登校だった友達のあやちゃんとカラオケに行ったときに、彼女がスピッツの「仲良し」を歌ってくれたことがきっかけだった。
新垣結衣似のあやちゃんは、学校に行っていない間ずっと歌を歌っていて、信じられないくらい歌がうまかった。中学生なのにAJICOとか歌うし。何よりあゆみたいに音程をとるのに手を上げたり下げたりする姿は衝撃的だった。あやちゃんの歌う「仲良し」は、あまりにも素敵な曲に聞こえたから、その後頼んでフェイクファーを貸してもらったのがきっかけで、スピッツに興味を持ち始めていたところだった。

そんなある日、何かのCDを予約しにいつものレコード店に行ったとき、突然ポニーテールのお姉さんが、「スピッツの新譜は聴いた?今店でかかってるやつだよ」確かこんな感じで、初めて話しかけてくれた。店内でかかっていたのは「みそか」。そのときの感動が忘れられなくて、いまだに私にとってスーベニアとは「みそか」のイメージだ。

私は曲の感動以上に、雲の上のような存在だった憧れのお姉さんに、「音楽が好きな女の子」としてちゃんと認知されていて、声をかけてもらったことが心底嬉しかった。音楽の話できる学校の友達なんか、あやちゃんくらいしかいなかったのに。ていうかそもそも、あやちゃん学校に来ないし…。お姉さんには、即答で「買います」と言った。

その次に訪れた時は、「次のライブで即売に行くこのバンド、最近売れてきてるらしいよ。かけてあげるね」と言って、つばきの「あの日の空に踵を鳴らせ」を店内でかけてくれた。自分がこれ以上ないと思っている空間で、自分のために音楽がかかっている、恐ろしく幸せな瞬間だった。レコード店が一気に夢のような空間に思えて、頭がくらくらした。

そのCDはお金がなくて買えなかったけど、嬉しくて、今でも忘れられないアルバムになっている。
ドラマ・カルテットの「行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか」というすずめちゃんの名言が思い出される。
(そんなことを久しぶりに考えていたら、同日につばきのボーカルの一色徳保が病気で亡くなったことを知り、どうしようもなく悲しくなった。ご冥福をお祈りいたします。)

お姉さんから買ったスーベニアは毎日、受験勉強の合間のご褒美に、本当に擦り切れるんじゃないかと思うくらい聴いた。今でも全曲ほとんどソラで歌える気がする。歌詞カードを見ながらコンポの前で毎日歌っていたから。パジャマから制服に着替える合間すら惜しくて、暇をみつけては聴いていた。

スーベニアは、レコード店の思い出だけでなく、当時片想いしていたたサッカー部の男の子との一方的な思い出がある。スーベニアを聴きながら、ずっとその人のことを考えていたから、今でも聴くたびに頭に浮かんで、懐かしい。

「優しくなりたいな」が特に好きだっだなあ。

水の音を聞くたび いけない妄想巡らす 嫌いなはずのメロディー 繰り返し口ずさんでる

この歌詞は、子どもの自分にはまだわからない艶やかな光景があって、そういう意味では手に届くはずもないのに、恋に浮かれながらも切ない気持ちは苦しい程わかって、胸がぎゅっと締め付けられた。

「ほのほ」も何度も聴いたなあ。告白して振られて、偶然同じ高校に入学した後もデートに誘っては断られ、叶わなかったけれど本当にしぶとく一人の人を追いかけ続けた思い出がこのアルバムには詰まっている。

いや、正確には「この人を好きなことが嬉しい」とか「私ならこんな風にこの人を大事にできる」だとか、そういう恋する気持ちを大切にできた思い出深いアルバムだった。
「ありふれた人生」も「恋のはじまり」も、まさにそんな曲だと思う。スピッツのアルバムの中でも、スーベニアにはとびきり浮かれて飛んでいきそうな気持ちが詰まっている。二曲目の「ありふれた人生」のイントロのストリングスのなんとドラマチックなことか…!!!スピッツ全曲束ねたって、この曲のイントロのドラマチックさに勝てるものなんてない!と声を大にして言いたい。

それにしても、スーベニアが好きと言うと、みんなに「あのアルバム疲れない?」と、不思議に思われる。ストリングス多めで、やたらと音圧がすごいこのアルバムを苦手とする気持ちはとてもよくわかる。たぶん、私も前述のいろんなエピソードがなければさほど好きにはならなかったと思う。音圧によって、朝ラーメン、昼焼肉、夜ステーキ、みたいな胃もたれがする感じだろうな。

でも、この熱にあてられたような亀田誠治のアレンジの相性が、浮かれた恋心と何よりも一番良いアルバムな気がする。冬に中学の教室の真ん中に置かれる、大きくて暖かいストーブに手をかざす度に思った。じんわり熱を帯びていく感じがスーベニアに似ている、と。

今でも、誰かのことを好きになるたびに私はこのアルバムをアホみたいに聴いてしまう。「恋のはじまり」の熱くてめまいがするようなぼやけた音を聴くたびに、気持ちがそのまま音になって溶けていく感じがする。「心の中がまんま音になったようだ」と、何度思っただろう。

新種の虫達が鳴いてる 真似できないリズム 

それは恋のはじまり おかしな生き物 花屋覗いたりして

マサムネの比喩も秀逸で、光景ばかりが歌詞になっているのも浮かれ具合が伺えて良い。
今まで「やたら執着心強そうな歌詞だけど、この曲の女は妄想上の人物で実在しない気がする」とか「マサムネは変態だからさ~」と言って人と笑うこともあったけれど(特に初期)、このアルバムはマサムネがまともに恋をしてそうなところも好感が持てる。(失礼)

とにかく私はこんな経緯でスーベニアが大好きで、思い入れがありすぎて、アナログの再発がとびきり嬉しい。スーベニアのアナログ盤を手にするときには、大好きなレコード店のお姉さんにこの話をしよう。その日までに部屋もきれいにして、ゆっくり聴けるようにしよう。

10年前、コンポの目の前で過ごす時間は宝物だった。レコードは今もそのコンポに繋いで聴いている。時を経て、私はどんな気持ちでスーベニアを聴けるだろうか。早く自分の手元に届きますように。 

 

ポニーテールのお姉さんとは、今や一緒に飲みに行くほどにもなった。いつも「はっぴいえんどのCDをわざわざ買いに来る高校生なんて君くらいだったよ」と笑ってくれる。

 そのたびに、大人になるのは、悪くないなと思う。

にこたま/渡辺ペコ

面白い漫画貸してと言われたので、大好きな渡辺ペコのにこたまを貸した。

以下ネタバレです。

 

にこたま(1) (モーニング KC)

にこたま(1) (モーニング KC)

 

 

 10年近く付き合っている同棲カップルのあっちゃんとコーヘー。しかしながら彼氏のコーヘーがよそで子供をこしらえてしまう。危機的状況の中、彼女のあっちゃんは子供ができないことが発覚するという、ここだけ説明すると相当絶望的なストーリーだ。

この漫画を最初に買ったのは大学生の時だった気がする。2巻くらいまで買って、社会人になった後、生まれて初めて直島に行った時見た妊娠出産アートの展示があまりに神秘的で、怖くて、気持ち悪くて、「子供を産むのって超怖い」と思った。その日はドキドキして妊娠する夢を見た。そのままこの漫画のことを思い出して、最終巻まで一気に買いに行ったんだった。

初めて読んだのが22歳前後、今私は27歳。私はその間にいくつかの恋愛をして、周りは結婚出産を経験して、5年の間に価値観も少しずつ変わってしまった。当時の感想がどんなものか忘れたが、今とは感想が違うことはわかる。今はもっとリアリティあるザワッとするような気持ちがして、客観的にあっちゃんとコーヘーを見る事ができて驚いた。また、3年も経ったらその感想も変わるんだろうと思うけど。

にこたまを貸して読み終わった知り合い(男)に「どうしてイルカは子供いらないって言ってるのに、好物件のイルカとあっちゃんは付き合わなかったんだろう?」と言われたのだが、「そりゃイルカは若くて金持ってるイケメンだけど、絶対後で子供欲しいって言うよ。今、恋のはじまりの好き好き大好き超愛してるトランス状態でおかしくなってて、数年後同じ答えが出ないことはあっちゃんもわかってるから」と返事した。

その後私は続けてこう言った。

「それに、あっちゃんは子供が欲しいと思うたびに、一生子供ができない現実と戦っていかなければならない。同じように恋人以外の人間と子供を作ってしまった現実と一生戦わなければならないコーヘーっていう、お互いが背負わないといけないものがあるような言わば欠けてるもの同士の関係の方が、もしかすると、あっちゃんの心の底では何らかの安心要素になってたのかもしれないね。完璧なイルカといたら、プレッシャーで倒れるよ。」と。

 …この回答は5年前には出てこなかった。適齢期になり、妊娠が簡単ではないことを周囲のいろんな情報から思うことが増えたからだ。私自身、心配から昨年女性向けの医療保険に入った。自分には結婚や出産の予定はないが、女に産まれた自分がいろんなパターンの人生を想像した時、どうしても子供がいる人生、いない人生については真剣に考えてしまう。子供ができるなんて、本当に奇跡みたいなことだ。誰にでも叶う訳じゃない。でももし、結婚して、この人との子供を欲しいと思った時に、できなかったとして…そんな時の夫婦の選択肢を、あっちゃんは最後にくれた。みんなわかってるはずだけど、なかなか踏み出せない答えを、あっちゃんはあっちゃんの体でしっかり悩んで出した。あっちゃんがコーヘーと結婚し、愛する夫というよりも「共同経営者」に選んだことも、今の自分にはなんとなくわかる。にこたまのオチは、頭でっかちの私には、本当に世界が広がったように見えたんだなあ。もし子供ができなかった場合の人生を考えることが、怖くなくなった。

 いつか引っ越しをしても、ずーっとこの漫画は私の側にい続けるんだろう。渡辺ペコの漫画はどれも好きだが、この漫画は特別。今は、あっちゃんが大手出版社の新聞記者をやめて、マイペースにお弁当屋さんで働いていることに、一番共感してしまう。あっちゃんはあっちゃんのペースで。それを選んだのは、きっと1巻がはじまるずっと前からだ。あっちゃんが物語の最後まで、自分のペースで、自分の体で、ひとつひとつ気持ちと状況を咀嚼してみつけた答えは、とっても愛おしい。