タイコクラブに行ってきた

人生初、タイコクラブに行ってきた。

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キャンプを必要とするフェスに関しては、フジロックで経験済みだけど、こんなに快適なものかと驚いた。フジロック3日間は、物理的な部分でかなりしんどかったのは事実。タイコは以下の3点がかなりクリアだったのが良かった。

・ステージ間の距離がたいして苦痛じゃない。5分~10分以内。
・テントサイトからステージが近いので疲れたらすぐ帰れる
・テントサイトが芝生で平面。(フジはすごい傾斜)


フジロックの隣同士のステージ、グリーンからホワイトの地獄のような距離と天気、人の多さ、テントサイトまでの距離、もう憎さしかないので…。
でも今年helinoxのパチモンのチェアを買ったので、持ち運びしたら5年前のフジよりかはよっぽど楽しめるかも!

アウトドア偏差値70くらいのお友達と行ったので、食事がとても楽しかったです。友達が仕込んできたこの鳥さんの中にはピラフまで入っており、料理が信じられないレベルで美味しすぎてなかなかライブを見に行けなかった。

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しかし、寒い寒いとは聞いていたけど、夜は尋常じゃないほどの寒さに驚いた。
まーさすがに使わないっしょと思いながら多めに持って行った防寒具ですべて武装、なおクソ寒い!!という状況。あったかく快適に眠るにはいくらかければいいんでしょうか…。横綱にくっついて寝るくらいしか対応策が思いつかない。

ちなみに防寒具ラインナップはこれ。手持ちのユニクロ

ヒートテック
ヒートテック極暖(普通のと二枚重ねした)
ヒートテックタートルネックフリース
・ウルトラライトダウン長袖
・150デニールタイツ
・貼るカイロ

5月だけど、これでも余裕で寒かった。芝生には霜が降ってた。昼間は夏服なのに!!
夜中に作って食べたカップラーメンがおいしかったなあ。寝袋は封筒型だったので、寒さ対策にいつかマミー型がほしい。焚き火が暖かかった。

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しかし、これを機会にひも付きの帽子も、サコッシュも、速乾性の高いスカートも、パチモンヘリノも揃えたので、あとはゴアテックスがあれば完璧。カープファンだから野球観戦にも使えるように、赤のゴア買いたいんだー。
トレッキングシューズもあるし、軽い登山やハイキングならできるくらいには揃えられたので、夏フェスどんとこい!って感じ。
いつもフジとかタイコを遠巻きに見てたのは、物を持っていなかったからなので、今後とても気楽。

しかしモノ揃えるのって、たのしーねーーー。
かわいくないとバカにしては遠ざけていたモンベルがいかに安くて良いものかも、貧乏人故、気付いてしまった。速乾性のあるスカートを買った。(本当はむちゃくちゃノースフェイスで買いたいし次は買うもん)

ライブはみんなで見たlittle simzが良かった。友達二人が私の分のビール買って待っててくれて嬉しかった。

あとは真夜中のcero
ceroのライブはワンマンも含め何度も行っている。最近もういいか、とライブに飽き始めて足が遠ざかっていたけれど、目の覚めるような演奏に驚いた。ロケーションがいいだけじゃない、そう確信できるほど今までのライブとは少しずつアレンジも違うように思えたし、夜中の1時に体力の限界を感じていたとはいえ、ほとんど最後まで見た。

ロープウェーという新曲がある。

Everything's Gone To The Foggy Outside
やがて人生は次のコーナーに
人生が次のコーナーに差し掛かって

今日のceroは、この曲を聴きに来たんだった。

「人生が次のコーナーに差し掛かって」このフレーズを聴くたびに、心がすり減ってどうしようもない気持ちになる。他人の歩く速さなんてどうでもいいからゆっくり歩くと決めたはずなのに、私の人生の次のコーナーは一体どこにあるのだろうか、と。

だけど、今日この日に聴いたライブでは、「今こそ私の人生は次のコーナーに差し掛かってる」と思えたから不思議だった。ぽろぽろ泣きながらテントに帰った。

…最近は自分の世界が少しずつ広がっていくのがわかる。新しい趣味が増えた。自分から発信することが増えた。アウトプットが惜しみなくできるようになった。
そしてそのすべてに、自分で進んで得た人間関係があった。その中には、少し前の自分では遠慮して構築できなかったであろう人間関係も含まれる。

まっさらから関係を築くとき、自分が前よりもずっと素直だから、なんだか今までとちょっと違う。自分と自分の間で、駆け引きがなくなって、うまくやれるとかやれないとかは関係なくなってしまった。だってダメなときくらいあるっしょ。
何があっても自分だけのせいにしないこと、減点式ではなく加点式であること、それだけでこんなに世界が広がるのかと思う。

失敗とか、成功とか、そういうのが自分からどんどん遠くなっていく。
2017年も半分が終わろうとしている。物事の考え方が180度違って、去年の自分が別人みたいだ。毎日マジでつまんなくて本当に死にそう、でもそれもきっと余裕があるしるしのはず。  

さてさて、次の予定はハイキングだ!!

愛の休日/柴田聡子

初めて初期のライブ映像を見たとき、失礼を承知で言うと、爆弾みたいな人だなと思った。
理由は、歌っている姿が何か訴えようとして怒っているように見えたことと、歌詞に突拍子がなくて、何をしでかすかわからない危なっかしさを感じたからだった。さらに、その時彼女はキノコ頭で少し太っていたので、ころころとした見た目もそう思わせる一助を担っていた。
ももうそんな柴田聡子はどこにもいない。彼女は怒っていない。何より、すっかりあか抜けてしまった彼女は見違えるほどに美しい。

 

愛の休日

愛の休日

 

 

この記事について、本人の意図は知らないので、いつも以上に、あくまでも一ファンの感想として捉えてほしい。

1stアルバムの「しばたさとこ島」を聴いてから、私は話したこともないこの人のことを、きっと同志と受け取っていたのだろう。彼女には、曲とともに人間的な魅力を感じずにはいられなかった。

 

カープファンのあの子は可愛いね
ギター弾けないから ボーカルで相変わらず可愛いね
あの子に子供が産まれる前に わたしに子供が出来る前に
もっともっと酷いことを考えておかなくちゃ


彼女が最初にブレイクしたのはこの「カープファンの子」だが、努力しようが「世の中顔と愛嬌」をまざまざと見せつけられるような歌詞、最後の「もっともっと酷いことを考えておかなくちゃ」のパンチライン…この人、相当卑屈な人生を送ってきたんだろうなと思った。「この気持ちはコンプレックスにまみれた人間にしかわからない」と当時かなり卑屈だった私はモロに共感して、心の「わかる!」ボタンを押し続けていた。

実際この時の柴田聡子は、あんまり可愛いとは言えなかった。
というか、せっかく可愛い顔をしているのに、抜群にあか抜けていなかった。
キノコ頭で、丸眼鏡にシャツのボタンを一番上まで留めて、なんでもないズボンを履いてギターを一生懸命弾いていた。サブカルなイベントにいるリュック姿のちょっと冴えない子、というイメージだった。

カープファンの子」の他にも、「芝の青さ」の「次生まれるときは違う星でお願い」なんて歌詞もあるし、世の中の妬みや嫉みを巧みな言葉選びできる分、もちろんこの人にも何らかのコンプレックスがあるんだろうなと思うに容易い。

なのに、ジャケットには自分の顔をめちゃくちゃアップにして使う。他にもわざと変に写っている写真をアートワークに使っていて、あか抜けない自分が歌っているということを主張するようなパッケージングに思えて仕方なかった。つまり、あんまり可愛くない柴田聡子が歌うことで、曲の説得力が確実に増していた。普通、コンプレックスは隠すものだ。でもこの人は、それをわかって自信満々にやっているようにしか見えなかったから、かなり不思議だった。「柴田聡子は、絶対に柴田聡子でないとならない。」そういう意図ももちろん感じられたが、前述のように不可解に思えてならなかった。

これで、私にとって「何を考えているのかわからない変な人」の烙印が押されることとなった。

そんなイメージが変わり始めたのが、3rdアルバムの「柴田聡子」。
このとき初めてライブに行って思ったことが

「む、むっちゃ可愛いやんけ…」

だった。
痩せて髪も伸びて「ああこの人はもう、カープファンの子がどうこうなんて、言わなくていいな。」と思った。ジャケットと同じワンピース姿が可愛らしい。このアルバムのジャケットは、誰が見たって、とっても可愛い女性だ。とてもキノコ頭でシャツのボタンを一番上まで留めていた野暮ったい女の子と同一人物だと思えない。
ライブを見るのは初めてだったので、「カープファンの子」を聴けるのを楽しみにしていたけれど、別に今の柴田聡子では聴けなくてもいいなと思った。

嫌味のない歌声で淡々と歌い上げるところは変わってない。でも、新しいアルバムには腹の底から出てくるようなねっとりとした怒りは感じないし、圧倒的な清々しさがある。

アルバムの先行MVで「後悔」が公開されたとき、柴田聡子はもうどこにでもいけるんだなと思った。純粋さと素朴さが売りだったはずなのに、斬新なイントロとリズムに合わせて、都会の街中を車に乗って楽しそうに歌う姿はあまりに新鮮だった。そして、とても似合っていた。

 

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初期の彼女は、一人で戦っているような感じがしていたから、なおさら。月刊ウォンブ!のライブ映像なんかまさにそうだと思う。可愛いワンピースを着ているのに、今と全く印象が違うなあ。

 

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でも、彼女はもう一人では作れないような音楽を作っている。「後悔」はそういう象徴的な曲に思える。

新しいアルバムのジャケットの彼女は、びっくりするくらい綺麗だった。腹の底から出していた、「カープファンのあの子はかわいいね」という言葉は、どこへ行ったんだろう。柴田聡子を見ていると、純粋だけど鬱屈した人間が、自分のやりたいようにおもいきって舵を切ることで、いきいきと美しい女性になっていく過程を見ているような気持ちになる。

今や彼女は、純朴な田舎も都会も似合う貴重な女性だ。軽やかなステップで、いろんな人を巻き込んで、自由に楽しく羽ばたいてる彼女の姿は最高に清々しい。純粋な芯を持ちながら、彼女はもっともっと魅力的な女性になるだろう、これからも、きっと、ずっと!
その確信があるからずっと見ていたい。「大嫌い」が「大好き」に聞こえてくるような巧みな言葉の変化球も、もっともっと投げてほしい。

最初、あか抜けないだなんて言ってごめんね。
「卑屈でいたって何も始まらないよなあ」、最近の可能性いっぱいの嬉しい私の口癖が、今の彼女を見ているとうんと近くに感じる。
美しい女性って、こういうことだなと、「愛の休日」を聴きながら、めざましい彼女の活躍を見て思う。

 私は久しぶりに、ライブに行くことを決めたのであった。

スピッツのアナログ盤再発に寄せて


スピッツのアナログが再発する。夢みたいな話だ。スーベニアのアナログ盤が手に入るなんて。他のアナログは最悪手に入らなくてもいいけれど、これだけは…そういう特別な想いがある。アナログ盤は、発売当時CDでスーベニアを買った店で予約した。どうしてもこの店で買いたかったから、予約しただけで嬉しくてちょっと涙が出そうになった。

 

スーベニア

スーベニア

 

 スーベニアの思い入れは、買った場所と、青春時代の片想いにある。

 今から13年くらい前。
中学生の私は音楽に夢中で、お年玉を少しずつ切り崩しては行きつけの家族経営のレコード店でCDを買っていた。例えば「愛内里菜の大ファン」とか、どう見ても濃い常連客達がコーヒーを飲みに来るような、やたらと「玄人向け」っぽい雰囲気に惹かれてその店でCDを買うことが多かった。要は、当時の厨二っぷりが発揮されていた訳だった。ビビりの私は当然ながら店員と仲が良い訳でもない。でも、この店には、「ここで買うことに意義がある」と思っているお客さんがたくさんいることが、店に通うごとにわかるようになった。 

店で夫婦が飼っている猫二匹の名前は、ルー・リードにちなんでいる。
柱には、洋楽イベントのヘッドライナー級のアーティストと、若かりし頃の女将さんが写っている40年くらい前の写真が何枚か飾ってある。

そしてそのレコード店には、明るくて長い髪をオールバックのポニーテールにした、小林麻央似の綺麗なお姉さんがいた。店主の娘さんで、当時23歳くらいだったと思う。颯爽としていて、八重歯がかわいくて、愛嬌があって、だからと言って飾ってなくて。柔らかい雰囲気なのに、いかにも「自分を持っている」という感じがした。私の住む田舎には、こんな人はいなかったから、お姉さんからCDを買うときはいつもドキドキした。話したことはなかったけど、すごく憧れていたんだと思う。

その頃の私はというと、スピッツのフェイクファーを熱心に聴いていた。当時不登校だった友達のあやちゃんとカラオケに行ったときに、彼女がスピッツの「仲良し」を歌ってくれたことがきっかけだった。
新垣結衣似のあやちゃんは、学校に行っていない間ずっと歌を歌っていて、信じられないくらい歌がうまかった。中学生なのにAJICOとか歌うし。何よりあゆみたいに音程をとるのに手を上げたり下げたりする姿は衝撃的だった。あやちゃんの歌う「仲良し」は、あまりにも素敵な曲に聞こえたから、その後頼んでフェイクファーを貸してもらったのがきっかけで、スピッツに興味を持ち始めていたところだった。

そんなある日、何かのCDを予約しにいつものレコード店に行ったとき、突然ポニーテールのお姉さんが、「スピッツの新譜は聴いた?今店でかかってるやつだよ」確かこんな感じで、初めて話しかけてくれた。店内でかかっていたのは「みそか」。そのときの感動が忘れられなくて、いまだに私にとってスーベニアとは「みそか」のイメージだ。

私は曲の感動以上に、雲の上のような存在だった憧れのお姉さんに、「音楽が好きな女の子」としてちゃんと認知されていて、声をかけてもらったことが心底嬉しかった。音楽の話できる学校の友達なんか、あやちゃんくらいしかいなかったのに。ていうかそもそも、あやちゃん学校に来ないし…。お姉さんには、即答で「買います」と言った。

その次に訪れた時は、「次のライブで即売に行くこのバンド、最近売れてきてるらしいよ。かけてあげるね」と言って、つばきの「あの日の空に踵を鳴らせ」を店内でかけてくれた。自分がこれ以上ないと思っている空間で、自分のために音楽がかかっている、恐ろしく幸せな瞬間だった。レコード店が一気に夢のような空間に思えて、頭がくらくらした。

そのCDはお金がなくて買えなかったけど、嬉しくて、今でも忘れられないアルバムになっている。
ドラマ・カルテットの「行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか」というすずめちゃんの名言が思い出される。
(そんなことを久しぶりに考えていたら、同日につばきのボーカルの一色徳保が病気で亡くなったことを知り、どうしようもなく悲しくなった。ご冥福をお祈りいたします。)

お姉さんから買ったスーベニアは毎日、受験勉強の合間のご褒美に、本当に擦り切れるんじゃないかと思うくらい聴いた。今でも全曲ほとんどソラで歌える気がする。歌詞カードを見ながらコンポの前で毎日歌っていたから。パジャマから制服に着替える合間すら惜しくて、暇をみつけては聴いていた。

スーベニアは、レコード店の思い出だけでなく、当時片想いしていたたサッカー部の男の子との一方的な思い出がある。スーベニアを聴きながら、ずっとその人のことを考えていたから、今でも聴くたびに頭に浮かんで、懐かしい。

「優しくなりたいな」が特に好きだっだなあ。

水の音を聞くたび いけない妄想巡らす 嫌いなはずのメロディー 繰り返し口ずさんでる

この歌詞は、子どもの自分にはまだわからない艶やかな光景があって、そういう意味では手に届くはずもないのに、恋に浮かれながらも切ない気持ちは苦しい程わかって、胸がぎゅっと締め付けられた。

「ほのほ」も何度も聴いたなあ。告白して振られて、偶然同じ高校に入学した後もデートに誘っては断られ、叶わなかったけれど本当にしぶとく一人の人を追いかけ続けた思い出がこのアルバムには詰まっている。

いや、正確には「この人を好きなことが嬉しい」とか「私ならこんな風にこの人を大事にできる」だとか、そういう恋する気持ちを大切にできた思い出深いアルバムだった。
「ありふれた人生」も「恋のはじまり」も、まさにそんな曲だと思う。スピッツのアルバムの中でも、スーベニアにはとびきり浮かれて飛んでいきそうな気持ちが詰まっている。二曲目の「ありふれた人生」のイントロのストリングスのなんとドラマチックなことか…!!!スピッツ全曲束ねたって、この曲のイントロのドラマチックさに勝てるものなんてない!と声を大にして言いたい。

それにしても、スーベニアが好きと言うと、みんなに「あのアルバム疲れない?」と、不思議に思われる。ストリングス多めで、やたらと音圧がすごいこのアルバムを苦手とする気持ちはとてもよくわかる。たぶん、私も前述のいろんなエピソードがなければさほど好きにはならなかったと思う。音圧によって、朝ラーメン、昼焼肉、夜ステーキ、みたいな胃もたれがする感じだろうな。

でも、この熱にあてられたような亀田誠治のアレンジの相性が、浮かれた恋心と何よりも一番良いアルバムな気がする。冬に中学の教室の真ん中に置かれる、大きくて暖かいストーブに手をかざす度に思った。じんわり熱を帯びていく感じがスーベニアに似ている、と。

今でも、誰かのことを好きになるたびに私はこのアルバムをアホみたいに聴いてしまう。「恋のはじまり」の熱くてめまいがするようなぼやけた音を聴くたびに、気持ちがそのまま音になって溶けていく感じがする。「心の中がまんま音になったようだ」と、何度思っただろう。

新種の虫達が鳴いてる 真似できないリズム 

それは恋のはじまり おかしな生き物 花屋覗いたりして

マサムネの比喩も秀逸で、光景ばかりが歌詞になっているのも浮かれ具合が伺えて良い。
今まで「やたら執着心強そうな歌詞だけど、この曲の女は妄想上の人物で実在しない気がする」とか「マサムネは変態だからさ~」と言って人と笑うこともあったけれど(特に初期)、このアルバムはマサムネがまともに恋をしてそうなところも好感が持てる。(失礼)

とにかく私はこんな経緯でスーベニアが大好きで、思い入れがありすぎて、アナログの再発がとびきり嬉しい。スーベニアのアナログ盤を手にするときには、大好きなレコード店のお姉さんにこの話をしよう。その日までに部屋もきれいにして、ゆっくり聴けるようにしよう。

10年前、コンポの目の前で過ごす時間は宝物だった。レコードは今もそのコンポに繋いで聴いている。時を経て、私はどんな気持ちでスーベニアを聴けるだろうか。早く自分の手元に届きますように。 

 

ポニーテールのお姉さんとは、今や一緒に飲みに行くほどにもなった。いつも「はっぴいえんどのCDをわざわざ買いに来る高校生なんて君くらいだったよ」と笑ってくれる。

 そのたびに、大人になるのは、悪くないなと思う。

にこたま/渡辺ペコ

面白い漫画貸してと言われたので、大好きな渡辺ペコのにこたまを貸した。

以下ネタバレです。

 

にこたま(1) (モーニング KC)

にこたま(1) (モーニング KC)

 

 

 10年近く付き合っている同棲カップルのあっちゃんとコーヘー。しかしながら彼氏のコーヘーがよそで子供をこしらえてしまう。危機的状況の中、彼女のあっちゃんは子供ができないことが発覚するという、ここだけ説明すると相当絶望的なストーリーだ。

この漫画を最初に買ったのは大学生の時だった気がする。2巻くらいまで買って、社会人になった後、生まれて初めて直島に行った時見た妊娠出産アートの展示があまりに神秘的で、怖くて、気持ち悪くて、「子供を産むのって超怖い」と思った。その日はドキドキして妊娠する夢を見た。そのままこの漫画のことを思い出して、最終巻まで一気に買いに行ったんだった。

初めて読んだのが22歳前後、今私は27歳。私はその間にいくつかの恋愛をして、周りは結婚出産を経験して、5年の間に価値観も少しずつ変わってしまった。当時の感想がどんなものか忘れたが、今とは感想が違うことはわかる。今はもっとリアリティあるザワッとするような気持ちがして、客観的にあっちゃんとコーヘーを見る事ができて驚いた。また、3年も経ったらその感想も変わるんだろうと思うけど。

にこたまを貸して読み終わった知り合い(男)に「どうしてイルカは子供いらないって言ってるのに、好物件のイルカとあっちゃんは付き合わなかったんだろう?」と言われたのだが、「そりゃイルカは若くて金持ってるイケメンだけど、絶対後で子供欲しいって言うよ。今、恋のはじまりの好き好き大好き超愛してるトランス状態でおかしくなってて、数年後同じ答えが出ないことはあっちゃんもわかってるから」と返事した。

その後私は続けてこう言った。

「それに、あっちゃんは子供が欲しいと思うたびに、一生子供ができない現実と戦っていかなければならない。同じように恋人以外の人間と子供を作ってしまった現実と一生戦わなければならないコーヘーっていう、お互いが背負わないといけないものがあるような言わば欠けてるもの同士の関係の方が、もしかすると、あっちゃんの心の底では何らかの安心要素になってたのかもしれないね。完璧なイルカといたら、プレッシャーで倒れるよ。」と。

 …この回答は5年前には出てこなかった。適齢期になり、妊娠が簡単ではないことを周囲のいろんな情報から思うことが増えたからだ。私自身、心配から昨年女性向けの医療保険に入った。自分には結婚や出産の予定はないが、女に産まれた自分がいろんなパターンの人生を想像した時、どうしても子供がいる人生、いない人生については真剣に考えてしまう。子供ができるなんて、本当に奇跡みたいなことだ。誰にでも叶う訳じゃない。でももし、結婚して、この人との子供を欲しいと思った時に、できなかったとして…そんな時の夫婦の選択肢を、あっちゃんは最後にくれた。みんなわかってるはずだけど、なかなか踏み出せない答えを、あっちゃんはあっちゃんの体でしっかり悩んで出した。あっちゃんがコーヘーと結婚し、愛する夫というよりも「共同経営者」に選んだことも、今の自分にはなんとなくわかる。にこたまのオチは、頭でっかちの私には、本当に世界が広がったように見えたんだなあ。もし子供ができなかった場合の人生を考えることが、怖くなくなった。

 いつか引っ越しをしても、ずーっとこの漫画は私の側にい続けるんだろう。渡辺ペコの漫画はどれも好きだが、この漫画は特別。今は、あっちゃんが大手出版社の新聞記者をやめて、マイペースにお弁当屋さんで働いていることに、一番共感してしまう。あっちゃんはあっちゃんのペースで。それを選んだのは、きっと1巻がはじまるずっと前からだ。あっちゃんが物語の最後まで、自分のペースで、自分の体で、ひとつひとつ気持ちと状況を咀嚼してみつけた答えは、とっても愛おしい。

2017年やりたいことリスト

 

備忘録。2017年やりたいことリスト

・競馬
よしもと新喜劇観覧(できればすっちー回でドリル…)
マツダスタジアムカープ観戦
・寝そベリア
・山登り
・転職
・タイコクラブ
フジロック
ゴアテックスのマウンテンパーカー買う
・ZINEつくる
・体調を万全にする
・ヨガ
ZARAのジーンズを履く
・みんなでびわこバレイ行く
ボードゲーム会する

【済】
・バッティングセンター
・ブログを始める
 

 

春と盆暗/熊倉献

とにかく装丁の色合いが抜群! 自分の部屋に漫画を飾れるスペースがあるなら飾りたい! ここ最近の漫画の中で、ダントツでジャケ買いする人が多いのでは…

 

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

春と盆暗 (アフタヌーンKC)

 

 

この漫画の帯は、「どうして君みたいなエイリアンを好きになってしまったんだろう」

でも、実際はエイリアンとの恋愛漫画ではなく、エイリアンのように何を考えているのかさっぱりわからない女の子達と、冴えない盆暗主人公との恋愛短編集。
例えば、イライラすると頭の中の宇宙で標識をぶん投げて、惑星に刺してその場をやり過ごす女の子。美味しいお菓子を再現(逆再生)して作りたい女の子などなど。


どの女の子もとびきり変!一筋縄ではいかない子ばっかり! …と思っていたけれど、一周目と二周目では印象が全然違って見えるから不思議。

特に、一話目の「月面と眼窩」については、一周目はエイリアン、二周目は普通の女の子の変わった秘密のストーリーってくらい急にカジュアルに思えてしまった。


一見普通、でも他人が頭の中では何を考えているかなんてわからない。 彼女たちの不思議について、一番自分に近いものを上げるのなら、前回のブログのバーチャル杉本さんに近いのかもしれない。私は何かにつけて脳内の杉本さんに意見を乞うていたが、わざわざこのことを話したこのある人は一人くらいしかいない。

頭の中で、標識をぶん投げて月に突き刺すってのは、こういったことなんだろうなー。特別変な女の子だと思っていたけれど、頭の中の秘密を知らなければ、その辺にいるフツーの女の子。  

「月面と眼窩」は、そういう「変」なところにわざわざスポットライトを当てたラブストーリー。この作者変わってるなあ。好きになる盆暗男子たちも。


そして、なんだか私は大好きなスピッツのいろんな曲を思い出してしまった。 「春と盆暗」の中で、彼らが惹かれる女の子達の可愛さは、通常モテ評価となる気が利く・家庭的といった女子力からは程遠い。 彼女たちの変わったところは恋のきっかけになって、ツボをギューッと押してくる。 自分もこんな風にとびきり変なところを愛されたら、どんなに安心感があるだろう。そしたら、自分以外の代わりなんて一生きかないのになあ。なんて。

草野マサムネの歌詞ににじみ出る独占欲は、みんなが誰かをかわいいと思う魅力からは少し逸れているところにある気がして、そこが本当に愛おしい。

 

この街で俺以外 君のかわいさを知らない(大宮サンセット)
君はブチこそ魅力 小町を凌ぐ(ブチ)
憎たらしい笑顔 よくわからぬ手振り 君と生きていくことを決めた(ナナへの気持ち)


こんな歌が頭の中で流れていた。



ここからは「月面と眼窩」ネタバレ。

 

 

 
 
 
 
 
 


「カルシウムをとります」という言葉に対して、サヤマさんの最後のいちご牛乳、か、かわいすぎる!!カルシウムをつけるというゴトウくんの言葉を聞いて差し入れたのだろう。 
カルシウムなんだから、差し入れは牛乳でいいんだけど、牛乳だとストレートすぎるから、いちご牛乳で少しぼやかしたのかなと思うと、かわいくてかわいくて仕方ない。この精いっぱいでツンデレな感じに心底キュンとする!最後のこのシーンで、この漫画が大好きになった。

「春と盆暗」は、商業誌というよりコミティアっぽいなあという印象があって、苦手な人は苦手な作品だと思う。けど、行間を読む楽しさを感じられる人はきっと、一読したときよりも二回目の方がうんと、自分の身近な感情だと感じて、楽しい。

 

私と西加奈子と2016年

 

昨年、西加奈子の書く本にハマった。

だいたい私は女くさい話が好きで、田辺聖子の「典子三部作」とか角田光代の「対岸の彼女」なんかが好きなのだが、西加奈子はそういう方面から好きになったというよりは、全肯定型なところを好きになった。彼女の本の帯で、いつも又吉はそんなことを言っている。特に「ふくわらい」に対しては、そう感じた。

 

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)

 

 


この人の書く話は、
「過去の自分があって今の自分がいる」
という強いメッセージ性があることが多いのではないかと思う。
そして、この普遍的な言葉は、西加奈子の場合、
「自分がしてきたすべての選択、行動が、今この瞬間の自分を作っている」
と言い替える方が圧倒的に正しい。

なので、どんなに後悔することがあっても、今この瞬間の自分が好きであれば、結局何でも許せてしまう。 過去の選択がなければ今の自分はいないのだから。

なんやそれ、究極に楽になれる考え方やんけ!!!!

私はずっと選択に関して、「失敗しないこと」を重きに置いてきた。
だからこの考え方は脳内に雷が走るくらい衝撃的だった。
それはつまり、損したって、間違ったっていいってことだから。

「失敗しないこと」に重きを置く場合、精度を上げるために自分以外の価値観や意見が必要になってくる。
ということで、いつも私が選択をするときには、脳内にバーチャル杉本さんがいた。

杉本さんは、前職でグラフィックを担当していたギャルである。
服もテンション高いと全身黄色とかショッキングピンクを平気で着てくるし、髪も常に金髪。口調もギャル。
しかし仕事には真剣で、彼女のグラフィックには定評がある。
自分の欲求のまま自由に生きながら実績を残している最強の女である。

そして最強の女、杉本さんは人生に常に後悔がない。やりたいようにやり、したいことがあればその努力は惜しまない。現役東大生の恋人と別れても、翌週にはスペイン人と恋をしている。グラフィックをしているが、次は保育士を目指すと言って退職した。彼女はいつも輝いている。

なので、何かにつけて、迷ったときは脳内の杉本さんに問いかける。
「杉本さんならこういうときどうするだろう?」と。

失敗しないために、常に自由に生きているバーチャル杉本の意見をあてにしていた訳だが、なんだかずっと釈然としなかった。
それもそのはず、それは私自身の意見ではない。彼女が魅力的なのは自由に生きていたからなのに、私は自分以外の誰かの意見に縛られて、ちっとも自由ではなかった。

それが自分を生きづらくしているのに気付いた頃、同時にいろんな折り合いに自分を犠牲にする方を選び続けていたら、体の不調が無視できないところまできていた。私は大好きな恋人との別れという、これ以上ない大きな大きな大きな選択をし、その後ぱたりと倒れて、立っていられなくなった。
今思えば、多方面で無理していたここ数年分の垢が火薬となり、別れを契機に火がついて爆発したような感じだった。

大好きな恋人との別れは本当に正しかったの?会社に行く気になれない日に自分を甘やかしていいの?どうして体がうまく動かないの?毎日辛くて泣いているとき、母に言われた言葉がある。
「大丈夫、あなたのすることはぜーーんぶ正しいんだからね!」
この言葉は頭にガツーーンと響いた。

あー、そうか、母は西加奈子と同じこと言ってるんだ、と。
全部正しいなら、間違ってることは一つもない。

数か月後、私の思考には劇的な変化があった。
体調を崩したおかげで「今は無理しない」「今できることしかやらない」「自分のペースがあるから、それは甘えじゃない」「そしてそのことを相手にも伝えていい」という考え方が人生で初めてできるようになっていたのだ。当たり前のことだが、私はこれが本当にできなかった。勉強も極限までやって、志望校に推薦で入学したし、苦手な体育の球技は内緒で家の前で満足するまで練習した。どんくさい自分が人よりも良い成績を残すためにはまっすぐ努力をするしかなかった。 努力は実を結ぶことを知っているから、一生懸命をやめれなかった。

だから、こんな自分初めてだった。手放しで好きだと思えるくらい荷が軽かった。
「やらないこと」をすんなり選択できる自分に、初めて満足した。

結果的に「選択に間違いなんてないな、大切な人を失ってすごく辛いけど、考え方はうんと変わった。今の自分好きだから、悲しいけど後悔ばかりしても意味ないや。どんな選択をしようが大抵はうまくいかないし、なんとでもなる。」という結論にたどり着く。

26歳、気づくのは早い方だったと思う。これがあと10年遅かったら、絶対にもっと辛かった。

「自分がしてきたすべての選択、行動が、今この瞬間の自分を作っている」という言葉は、人生には何一つ間違いがないことを教えてくれた。
選択はいつも、「やりたい」か「自分にとって楽か」どうかだけでいい。それが自分にとっての正しいことに繋がるはず。

今の自分は、自分のやり方で、自分のペースで生きている。
少なくとも、前よりかはずっと。

2016年の末に「なんか荷が軽くてなんでもできそうな気がする!人生って一回きりじゃないね!いろんなアウトプットがしたい!やりたいように自分のペースで生きる!」って飲み屋で騒いでたら、友達が「中村一義の『そこへゆけ』の歌詞やな!一回きりじゃないから、って!」と言ってくれた。帰りに携帯で歌詞見ながらバスに乗って、嬉しくなった。
きっと聴くたびに、この夜を何度も思い出すだろう。

相変わらず不安なこともたくさんある。
2016年に失ったすべての人やものに対して、割り切れた訳でもない。
思い出さない日は、あれからいまだ一日もない。
でも、自分の悩み事に対する解決の仕方が変わったこと、それが本当に大きな収穫である。

この西加奈子のメッセージが今一番強いなあと思っているのが、「ふくわらい」の他に直木賞を受賞した「サラバ!」なので、お暇な方は是非。

生きてるって最高だな。
2017年はきっと忘れられないくらい、いい年になる。

 

サラバ! 上

サラバ! 上